隠す気もない愛妻家
「グウェン、起きてる?」
虫の音も聞こえてこない夜更け。門のように立ちはだかる重厚な扉の前に立った有利はしばし逡巡し、それから躊躇いがちに指の背でノックした。決意したにも関わらずどうしても気兼ねしてしまい、蚊の鳴くような声で室内に呼びかけた。
「……さすがに寝てるよなぁ」
数秒待ってもあの重低音ボイスが聞こえてこず、有利はほっとするやら、目的が達成できずに気落ちするやら、複雑な心境に陥った。
ガシガシと黒髪を掻き撫でながら、手の中にある書類を見下ろす。そこに記載された締め切り期日は本日。就寝間際にその存在を思い出し、顔面蒼白になりながら取り組んだものの、どうあがいてもグウェンダルに聞かねば分からない箇所にぶつかったのだ。
明日、素直に頭を下げ、皮肉のひとつも覚悟しながら完成させて提出するか。
日付を超えなければセーフだよね?もしかしたら起きてるかも、と微かな望みをかけて突撃するか。
ぐるぐると思い悩んだ有利が選んだのは、後者だった。
けれども、行動にうつしてから後悔がさざ波のように押し寄せてきて、逆に室内から反応がなかったことに胸を撫で下ろす。
このまま気配に気づかれる前に退散しよう、と踵を返しかけた有利の視界の端でゆっくりと扉が内側に開いた。
「あ、お、起こしちゃってごめん!」
「……陛下?」
「実は、……え、あれ?」
しまった!と顔をしかめた有利は咄嗟に扉に向き直り、口早に弁明を始める。しかし、聞こえてきた声の位置が想定よりも低く、ついでに言えば想定よりも遥かに軽やかな女のものだったため、有利は面食らった。
「陛下、どうなさったんですか?」
扉を細く開けて来訪者を確認した女は有利だと分かるとほっとした顔をし、それから有利を出迎えるように扉を引いた。
強面の長身に迎えられることを想定していた有利は、まさか自分よりも目線が低い愛らしい顔立ちの女が現れるとは思っておらず、動揺して女を凝視してしまう。
白を基調とした上質な布で作られたナイトドレスを身にまとった女は自分の姿を見下ろし、こそこそと扉の陰に体を隠して顔だけを覗かせた。
「ごめんなさい、こんな姿で……」
「え、あ、いえ!こちらこそすいません!!」
無防備な色気を漂わせる容姿とは裏腹な、小動物のように愛らしい仕草が胸を打つ。相反する魅力にますます視線が逸らせなくなるも、有利は声をひっくり返しながら謝罪し、両目をきつく瞑って顔を背けた。
(ひ、人妻のパジャマ姿を見てしまった……!!)
少女志向の有利の母親も似たような寝間着を身につけているが、他人様のモノとなればこうも印象が違うのか、と。
有利は一気に跳ね上がった心拍数を押さえるように胸を掴み、そうっと細目で女の様子を確認した。
思春期男子の動揺が分かっていないのか、女は不思議そうな顔で首を傾げている。そして、中途半端に隠れたままでは逆に失礼に当たるだろうかと思い直したのか、そそくさと扉の陰から姿を現した。
(…………さすがグウェンの奥さん、可愛い)
可愛いものが大好きなグウェンダルが見初めただけはある、と有利は目頭を押さえてしみじみと実感した。
この部屋から出てきたことからも分かる通り、女は……はフォンヴォルテール卿グウェンダルの妻である。
冷徹で皮肉屋、浮いた話のひとつもなく、女っ気の欠片もないグウェンダルだったため政略結婚を想像するだろうが、意外や意外な恋愛結婚だ。
赤子の時にフォンカーベルニコフ家に預けられたはその素性を理由に、城の外に存在を知られないよう隠れて生きてきた。アニシナの幼なじみであるグウェンダルにも知られずに、ひっそりと。
しかしある日、運命の悪戯か、はグウェンダルと城内で出会ったのだ。
『私は、誰にも知られない存在ですから』
驚くグウェンダルを前にしたはそう説明すると、自分の歩むべき人生をどこか諦めたように、そして寂しそうに微笑んだのだった。
その笑みを目にしたグウェンダルは初対面の相手、しかも相手が女であるにも関わらず、思わず声を荒げた。
『お前は生きてはいないのか』、と。
存在を知られないことが当然のことだと勘違いするな。
生きていれば、それだけその存在は知られるのだ。
現にこうして私はお前を知り、存在を認識したのだから。
グウェンダルはそう一息にまくし立てた後、呆気に取られるを記憶に刻み込んだ。
ーーーこれが出逢い。
グウェンダルの作った正体不明のあみぐるみを一目見、『うさぎですね』とが言い当てたのが、ーーー馴れ初め。
友人関係を続けていたものの、に見合い話が舞い込んでいると耳にしたグウェンダルが動転し、『私のものになれ』と勢い余って告白したことから、ーーー交際スタート。
……と、長編小説でも書けるのではないかという遍歴を経て見事にゴールインし、数十年夫婦関係を築いている。
ただの妻ではない。
自他ともに認める、愛妻だった。
(他人様の奥さんと深夜に密会だなんて……)
背徳感に胸を苛まれながら、有利は下心はないのだと皺の寄った書類を眼前にかざした。
「急ぎの書類が見つかっちゃって……グウェンに助けてもらえないかと……」
こんな非常識な時間に、と有利は自ら口にすることで反省の意思を示した。まあ、と声を漏らしたは口元に手を当て、更にその手を頬に滑らせた。
「ごめんなさい……グウェン、今日はもう寝てしまったんです……」
珍しく私よりも先に、と言葉を繋げると、申し訳なさそうに眉尻を下げる。
こんな夜更けにグウェンダルではなく、妻であるが出迎えた時点で、有利はある程度察しはついていた。
「で、ですよね……」
「明日の朝一番に確認させますから。今やるのも明日の朝やるのも、もう一緒ですよ」
気落ちする有利を励ますようには言い、その手から書類を受け取る。そして、心配そうに有利の顔を覗き込んだ。
「こんな遅い時間まで執務だなんて……陛下はちゃんと休まれていますか?」
「お、おれは全然平気です!いつもグウェンが助けてくれるから!」
「でも、グウェンは言い方がちょっと強めの時があって……気に病まないでくださいね?……ああ、陛下。隈ができていますよ」
夫の常日頃の言動をフォローした。
あ、と驚きの声を漏らすと、躊躇うことなく有利の目元に指を這わせた。
「え、え、え!?だ、だいじょ、ぶですから!」
目の輪郭をなぞる優しげな手つきと、距離が近づいたことでふわっと鼻を擽った甘い香りに有利はどぎまぎし、声を上擦らせながら言葉を返した。
まさか自分が原因とは気づかず、途端に真っ赤に染まった有利の頬をぺたぺたと触りながら、は何事かを思案する。そして、名案を思いついたとばかりに顔を明るくし、胸の前で両手を合わせた。
「そうだ。リラックスするためのハーブティーでも、」
「…………何をしている?」
の提案を遮ったのは、地を這うようにどこまでも低い声だった。
「起きたの?」
背中から覆い被さってくる長身を見上げ、は首を傾げた。
グウェンダルは半開きの扉に腕を当て、もう片方の腕をの腰に回し、そっと自分の側へと引き寄せる。そして、結っていない濃灰色の髪の間から有利を鋭く睨みつけた。
「……臣下の寝所を深夜に訪問し、その妻と密会するとは……良い趣味をお持ちですな、陛下?」
普段の三割り増しの皮肉がザクザクと突き刺さり、有利は引きつった悲鳴を上げて飛び退く。
「陛下、ごめんなさい。この人、寝起きは良い方なんですけど……途中で起こされちゃうと機嫌が悪くなっちゃって」
は苦笑しながら、宥めるようにグウェンダルの頭を撫でる。グウェンダルは上体を屈め、の頭部に頬を寄せた。
獰猛な狼が見事に手懐けられているようだと連想した有利だったが、ギロリと狼に睨まれて背筋を仰け反らせた。
(途中で起こされたからじゃないよ、これ!!)
明らかに怒気だけではなく殺気まで滲み始めたのを感じ取り、有利はだらだらと冷や汗を流す。しどろもどろにに伝えたのと同じ弁明をすると、グウェンダルの返答を待つ間もなく、脱兎のごとくその場を後にした。
有利の姿が廊下の角から消えたのを確認した後、グウェンダルは些か乱暴に扉を閉め、を引きずるようにして大股で部屋を移動する。そして、天蓋付きのベッドにぽいっと小柄な体躯を放り投げた。
「……グウェン?」
ベッドに転がった途端、静かに覆い被さってきた夫を見上げ、は首を傾ける。事態が飲み込めておらず、きょとんとしている妻の顔を見下ろしたグウェンダルの眉間に皺が一本増えた。
「無防備にもほどがある……深夜に、しかも寝間着で応対するなど……」
苦言を呈するグウェンダルの口調は淡々としたものだったが、その声は普段よりもずっと低く、浮かべた表情は険しさを増していた。苛立ちよりも心から心配している色をそこから感じ取り、自分の取った行動をようやく理解したははっとした顔をした。
「……そう、かもしれない……ごめんなさい、グウェンがいるからって安心しちゃって……」
自分の至らなさを反省し、は長いまつげに縁取られた目を伏せてしゅんっとする。すると、節くれ立った手がそっと柔らかな頬に添わされ、上を向くようにと促してきた。
がそろそろと視線を持ち上げると、こちらをまっすぐに見つめてくる深青色の瞳とぶつかった。
「……私は生涯をかけてお前を守るつもりだが、お前自身でも自衛はしてほしい」
反省して身を竦ませている妻を見、思わず無条件で許しを与えてしまいそうになるも、それを懸命に踏みとどまったグウェンダルは落ち着いた口調で念を押す。
は神妙な顔でこくりと頷いた。
「そうね。グウェンがいつでも守ってくれるわけでは、」
「守る」
間髪入れずに遮られ、はぱちぱちと目を瞬かせる。そして、頭に疑問符を浮かべながら、戸惑いがちに口を開いた。
「え……でも、いつでもはさすがに、」
「守るに決まっている」
「……グウェン、もしかして眠い?」
頑なな様子がどこかだだをこねているようにも思え、は夫の表情を確認した。
グウェンダルは何度か瞬きを繰り返して眉を顰め、眠気を振り払おうとしているのかゆっくりと頭を振った。
「…………寝ている途中で起こされたからな」
そう不満げな声を漏らしての隣に倒れ込むと、自分よりも遥かに華奢な体に両腕を回し、抱き寄せた。艶やかな髪に鼻先を埋め、鼻孔いっぱいに甘い香りを堪能する。全身での存在を感じ取り、胸いっぱいに広がる安堵感に薄い唇からはほうっと吐息が漏れた。
「……いい子いい子」
有利に凄んで見せた時とは違う、母親の温もりを求める幼子のような姿には微笑み、体に回るしなやかな腕を優しく撫でた。
「苦しくても我慢しろ。また勝手に出歩かれては敵わん」
掠れた声でそう囁きながら、グウェンダルはを抱きしめる腕の力を強くする。しかし、きゅっと息苦しさにが鳴けば、そろそろと力を抜いて加減を調節した。やっぱり優しい人だな、とは口元を緩ませて思いながら、うとうとと微睡むグウェンダルの頬を撫でた。
「離れないから安心してね……おやすみなさい」
すぐに聞こえてきた寝息には目を細め、そして自らもグウェンダルに寄り添って目を閉じた。
翌朝、四角く切り取られた日差しが差し込む廊下を歩きながら、有利は欠伸を噛み殺していた。
「……人妻のパジャマ姿なんて刺激が強すぎるよ……」
おかげで眠れなかった、と有利は呟き、しょぼつく漆黒の瞳を擦る。その隣を歩いていたコンラートはおやと目を見開き、それから真意の掴めない笑みを浮かべた。
「青少年ですね。まさか、彼女でこっそり……」
「まさか!そんな恐ろしいことするわけないだろ!グウェンに殺されるってば!!」
名付け親の爆弾発言に有利はぎょっと目を丸くし、起き抜けにしては大きな声を廊下に響かせる。
「……私が何か?」
「ヒッ!!」
背後から聞こえてきた胡乱げな声に有利は肩を跳ね上げ、おそるおそる後ろを振り返る。
どうしてここまでタイミングがいいのか、話題に挙げたばかりの臣下がそこにはおり、訝しげな様子でこちらを見下ろしていた。
(さっきの聞こえてなかったよな!?)
有利は慌てふためく心中を悟られないようにぎこちなく笑いかけるも、その顔色は真っ青だった。
「おはようございます、陛下」
グウェンダルの長身の陰からひょこっと姿を見せたはにこりと微笑み、朗らかな挨拶を投げかける。
「ッ!!」
昨夜の寝間着姿がフラッシュバックし、有利ははっと息を飲むと今度は真っ赤に顔を染め上げた。
「「?」」
青から赤へと目まぐるしく顔色を変えて言葉を失っている有利を前にし、夫婦は同じ方向に首を傾げる。
有利の心中が手に取るように分かったのか、ははっとコンラートは爽やかな笑顔を見せた。
「有利が寝不足だって話をしてたんだ。刺激がつよ、」
「わーわーわー!!コンラッド!ちょっと黙ってて!!」
有利はけたたましいほどに声を大きくし、コンラッドの口を咄嗟に塞いで廊下の奥へと引きずっていく。
「……刺激?」
「……お前は気にしなくていい」
有利の慌てぶりやコンラートが言外に含ませたニュアンスに察しがつき、グウェンダルは目に見えて機嫌を急降下させる。
「?」
眉間に刻まれた皺を更に深くする夫を見上げ、は状況が飲み込めないまでも宥めるように無骨な手を握った。グウェンダルは嘆息しながら頭を振り、大丈夫だと伝えるようにほっそりとした手を握り返す。
(ギュンターの寝間着姿でも見せ、記憶を上書きさせるか……)
絡ませた指をきゅっきゅっと握り込んでくる妻に癒されながら、グウェンダルはあれやこれやと脳内で画策するのだった。
「お仕事のことを考えてるの?」
「……違う、……お前のことだ」
「私のこと?……そう、嬉しい」
「……そうか」
喜びを露わにするの笑顔を見下ろし、心中を占めていたどす黒い思いが霧散していくのを感じながら、グウェンダルは目元を緩めて微笑み返した。
ーーーフォンヴォルテール卿グウェンダル閣下は、隠す気もない愛妻家。